今年の夏に兵庫県出石を訪ねて20〜30年前の宮脇さんの仕事の今を学生たちと確認したことはこのブログにも連載した。その折に出石の町の人たちから大変な歓迎を受けて宮脇さんの仕事の大きさを実感した。大学で開催中の「宮脇檀展」に合わせて大学を訪ねてくれた出石の方々をお招きして渡辺康教授設計の「百人町酒房」で歓迎会を開いた。宮脇事務所のOBも参加してくださって出石の頃の宮脇さんのことをさらに詳しく教えていただいた。お酒も入って大いに盛り上がり次はこちらが出石に出かけることを約束した。姫路の宮脇さんもいいそうだ。宮脇さんありがとう。
室伏次郎さんの「北嶺町の家」にお招きいただいた。1971年末竣工だから間もなく47年が経過するご自邸は限界予算の2戸建て「上の家・下の家」に始まって幾度もの改装・改築を経て棲み続けられ今の2世帯住宅「北嶺町の家」に至っている。そのダイナミックな変遷の足跡が建築の随所に残った空間は室伏さんの人生そのものの写しのようでもある。この日の主題は屋上庭園に生り繁ったオリーブの「収穫祭」。建設現場の足場ユニットで構築された仮設外階段を登って4階屋上に上がると一面に拡がる住宅地の眺めを遮るものは何もない。ご子息一家も加わって1060gを収穫し直ぐに苛性ソーダ2%水溶液に漬け込まれた。屋上の芝生に置かれた模型ケースのアクリルを転用したテーブルの内面結露が美しい。乾杯の後階下に戻り奥様の手料理で宴。歴史が刻まれた味わい深い空間で熱い語り合いの時間を持つことができたことに感謝したい。
photo by Fujinari Miyazaki
長崎市坂本で
[薄明薄暮性]crepuscularとタイトルされた写真展が開催されている。
[長崎のヴィッラ]の竣工写真を撮ってくれた宮崎富嗣成さんの建築/風景写真展でそのヴィッラの美しい写真も展示されている。crepuscularという耳にすることがそれほど多くない言葉から真っ先に連想するのは1980年頃に話題を集めたベルギーのレーベル「クレスプキュール」Crépuscule。私の守備範囲からは遠かったはずだが1989年にLes Disques Du Crépusculeという編集盤を懐かしい六本木Waveで購入していた。crepusculeはフランス語でたそがれ、すなわち「犬と狼の間」
entre chien et loupということ。その心は「慣れ親しんでいて心地よいものとよくわからなくて危険なものとの境目」。
身近によく見かけるセキレイは鳥とは思えないほどにひとなつこい。5世紀末のほぼ神話の世界を描く日経朝刊の新聞小説「ワカタケル」にマナバシラという古名で登場してから見え方が少しばかり変わってきたから不思議だ。際限なく拡がった大都市に暮らしていて、千年を超える時の流れを実感する機会がほとんどないからなのかもしれない。ちなみに5世紀にはローマ帝国は繁栄のピークを越えてすでに東西ローマ帝国に分裂している。コロッセオもパンテオンも建造されてからもう何百年も経っている。セキレイはローマでも日本でも同じように尾を振っていたに違いない。セキレイはラテン語ではmotacillaのようだからローマでもそう呼ばれていたのだろうか。ちなみにイタリア語はcutrettola。英語のwagtailは分かり易い。
非常勤講師をしている居住空間コースは家からはかなり遠いので9時の授業のためには7時前に家を出ることになる。だから毎週月曜日の早朝にパーシモンホールの樹々の中を急ぎ足で歩いて行くと鳥たちの挙動もいつもとは違っている。じっくり観察する時間はないのだが優秀なコンデジのおかげで時々お気に入りの写真が撮れる。電線に連なる椋鳥がリズミカルに並んでいて音楽になりそうだ。中学生の時に感動したMary Poppinsはアニメと実写が合成されたミュージカルで作曲はディズニーおかかえのシャーマン兄弟。この中で私が一番好きな曲はJulie Andrewsが歌う哀調を帯びた美しいメロディーのFeed the Birds。1988年のディズニーソングカバー集Stay Awakeに収録されたGarth HudsonのFeed the Birdsのアコーディオンも涙ものだ。
街中に張り巡らされている電柱電線網は日本独特の鬱陶しさだが街に棲む鳥たちには喜ばれているようだ。鳥撮りにとっても樹々の中に姿を消されてしまうよりは格段にいい撮影環境を提供してくれる。肉眼では種類を識別できないほどの距離からほぼ反射的に撮ったこの写真に颯爽と写っているのはカラスでもハトでもないようだ。Whatshername。PPMのAlbum 1700というレコード番号をタイトルにしたLPでPaul Stookeyがソロで唄うウッドベースが効いたジャジーな曲。この後にスリーフィンガーピッキングの柔らかい爪弾きで始まるBob Dylan's Dreamが続く渋い選曲がみごと。1967年の私はDylan作品の方は聴いたこともなかった。収録曲のLeaving on a Jet Planeが2年後の1969年になって大ヒットしている。ヤマハで輸入盤を入手した当時高1だった私は星稜祭の放送部の出し物の一つとして番組を制作した思い出がある。自ら選曲し原稿を書いてアナウンス室の同期の女の子が読んだ。「マリーさん」を「マリー」に直された。生真面目だ。サテライトスタジオは一ツ木通りのガラス屋から大きな厚い硝子を借りて来て作った。重い硝子を数人で持って遅刻坂を登るのは大変だったが懐かしい思い出だ。